駅の南口と北口、または西口と東口、線路を挟んだ“あちら”と“こちら”とで街の賑わいがまったく異なる地域があります。

あちら側には大企業の本社ビルがあるため商店街が繁盛する一方、こちら側の店は人通りも少なく閑古鳥が鳴いています。しかしこの状態が長年続くのかといえばそうではなく、企業の経営状況や再開発事業の影響で情勢が逆転することもあります。

このような駅の賑わいと企業とのかかわりや街並み形成の経緯について、過去の事例を見ながら考察してみたいと思います。

「浜松町」大再編で人流が激変

JR山手・京浜東北線と東京モノレール、都営大江戸線が乗り入れる「浜松町」駅には、駅南口と芝浦方面を結ぶペデストリアンデッキ(空中通路)があります。

正式名称は「浜松町構内跨線(こせん)人道橋」といい、昭和57(1982)年の竣工当時から芝浦に本社を置いていた大手電機メーカー・東芝の従業員をはじめ多くのサラリーマンに利用されています。

この通路は昭和59(1984)年度の「土木学会田中賞(永代橋や清洲橋を設計した田中豊博士の名を冠し、橋梁・鋼構造工学に関する優秀な業績に対し贈られる賞で、お台場のレインボーブリッジや横浜ベイブリッジなども受賞)」を受賞した優秀な建造物なのですが、一見すると「サビだらけで古めかしい」外観が物議を醸しています。

このサビは橋の耐久性を高めるためにあえて鋼材に錆安定化処理を施したもので、改修予算がなくて放置してこうなったわけではありません。しかし素人にはその原理がわからないため、「ボロボロでみすぼらしい」「なぜ補修しないの?」という声につながってしまうようです。すでに竣工から40年経っていますから「老朽化」と見られても仕方ないかもしれません。

一方、浜松町駅北口にある竹芝通りの上空では新しいペデストリアンデッキが建設中です。その正式名称は「港歩行者専用道第8号線(2026年に浜松町駅直結予定)」で、通路の高さはビル3階相当、幅員6m、全長236mの大規模建造物になります。

眼下には旧芝離宮恩賜庭園の全景が、さらに竹芝方面へ進めば首都高都心環状線も上空から望むことができます。この見晴らしは壮観で、まさにアニメや映画に出てくる未来都市のようです。

この通路の先にある複合オフィスビル「東京ポートシティ竹芝」にはソフトバンク本社が入居しています。ソフトバンクは竹芝エリアのスマートシティ化計画に参画するなど竹芝エリアの活性化に尽力しています。

これまで竹芝へ向かうのは港湾関係者か、伊豆諸島への定期船を利用する人ぐらいでした。今、「四季劇場」や「アトレ竹芝」「メズム東京」など注目のスポットが続々誕生している竹芝には、水辺のレジャーを楽しむカップルや家族連れといった“新しい人流”が生まれています。

Product(=芝浦の東芝)からIT(=竹芝のソフトバンク)への世代交代とでも言いましょうか、時代をリードする企業によって街の様相はどんどん変わっていきます。

「新大久保」コリアンタウンの火付け役

駅の改札を出た途端、ここが東京であることを忘れさせてくれる街「新大久保」。韓流アイドルのブロマイドやキャラクターグッズのほか、ホットク、ハットグ、クロッフルなどの食べ歩きグルメも多彩なこの街はいつからコリアンタウンになったのでしょう。

新大久保に隣接する繁華街・歌舞伎町で働く韓国人女性が多かったからでしょうか? はたまた、新宿・職安通りに韓国料理店が林立していたせいでしょうか? もっとも濃厚なのは、韓国に所縁のある大手菓子メーカー「ロッテ」が新大久保(新宿区百人町)にあったからではないかという説です。

ロッテは昭和23(1948)年に新大久保で創業し、同地に建てた新宿工場で昭和25(1950)年からチューインガムの製造を開始しました。工場は山手線の軌道に沿うように細長く建てられ、壁面には「LOTTE」のロゴや商品名がデカデカと書かれていました。

それらを山手線の車窓から見た時は、「新宿に、しかも山手線の線路沿いにこんな大きな工場があるなんて」と驚いたものです。工場は平成25(2013)年に操業を終えてその4年後に解体、跡地は住宅展示場として利用されています。

「恵比寿」のランドマークを守り続けて100年余

住みたい街ランキングの上位を常に独占している「恵比寿」。駅名の由来となったのは、この地に醸造場を構えていた「エビスビール(恵比寿麦酒)」です。

醸造場は明治22(1889)年から操業し、恵比寿駅はここから出荷されるビール専用の貨物ターミナルとして開業しました。明治30(1900)年代以降は一般旅客利用も開始されますが、隣りの渋谷駅と同様に起伏の激しい地形にあったため、ホームは盛土され高架状に造られました。

現在の駅ビル「アトレ」が建つまで駅周辺は閑散とし、ホームから見えるのは中低層の商店群や遠くに建ち並ぶ醸造場の建物ぐらいだった記憶があります。

平成時代に入ると醸造場は100年の歴史に幕を閉じ、その跡地は複合商業施設「恵比寿ガーデンプレイス」に生まれ変わります。その途端、恵比寿はこれまでとまったく違った発展を遂げることになります。

ホテルやショッピングスポット、レストラン、美術館など、敷地面積9万㎡超にわたるランドプランが実現できたのは、長年にわたりこの地を守ってきた醸造場のおかげです。

醸造場の歴史は敷地内にある「恵比寿ビール記念館」で振り返ることができ、併設のテイスティングサロンでは現代の新作ビールも味わうことができます。エビスビールは今もなお恵比寿のランドマークとして君臨し続けているのです。

「大井町」光学通りがエゴマの原を賑やかに

ニコンは大正7(1918)年から品川区西大井にある自社工場(現・大井製作所)で光学ガラスの研究を開始します。当時のニコン社員の唯一の通勤手段といえば、国鉄(現・JR)「大井町」駅でした。

一般旅客利用開始からな間もない大井町駅周辺には、品川の旧郡名「荏原」の由来となった荏胡麻(エゴマ)が生い茂る原っぱもまだ残っていたかもしれません。そんな牧歌的な街も、工場で働く労働者たちの需要に支えられながら賑わいを増していきます。

大井製作所と駅とを結ぶ道路はいつしか「光学通り」と呼ばれるようになり、通り沿いに仕事帰りのニコン社員を目当てにした商店が増えはじめます。光学通りの商店街は駅前繁華街と繋がり、道路沿いはどんどん商業化されていきます。

しかし、自然発生的に増殖した商店街は賑わい故の道路拡張によって消滅することになります。そして大井製作所も平成28(2016)年に役割を終え解体されます。

これで長年繋いできた駅との絆が断ち切られるのかと憂うのも束の間、大井製作所跡地に「ニコン新本社建設」のニュースが入ってきたのです。新たな最寄り駅となるのは横須賀線「西大井」駅です(大井製作所の操業当時、西大井駅はまだ開業していませんでした)。

今後は西大井駅に向かって「新・光学通り」ができるのでしょうか。ニコンと西大井駅周辺の発展に期待したいものです。

まとめ

線路や駅を挟んだ“あちら”と“こちら”とで街の様子がまったく異なるケース、これは企業の進出状況や経済情勢などによっても変化していきます。

浜松町の「浜松町構内跨線(こせん)人道橋」はすでに築40年が経過しておりそろそろ建替え時です。また企業の栄枯衰退サイクルも30年程度という説がありますから、概ね理に適った世代交代時期なのではないでしょうか。

新大久保のロッテ新宿工場はコリアンタウンの土台を創り、エビスビール醸造所は「恵比寿ガーデンプレイス」という広大なランドマーク予定地を100年にわたり守って来ました。ニコン大井製作所も古くは大井町駅の繁栄に貢献し、今後は西大井駅の発展に寄与していくことでしょう。