民法には、数年間「自分のモノだ!」と信じて所有してきた他人のモノを手に入れることができる「取得時効」というルールがあります。
このルールを不動産に当てはめると、本来は借家なのに借家人が「自分の持ち家」と思い込んで暮らし続ければ、大家からその住宅を奪うことができるというものです。借家人には好都合、しかし大家には不都合な取得時効ついて、誰にでも起こりうる典型的な事例を交えて解説します。
「所有の意思を持って占有」ルールの脅威
取得時効には「長期取得時効」と「短期取得時効」の二種類があります。まずはそれぞれの民法条文を見てみましょう。
長期取得時効(民法第162条 第1項)
20年間、所有の意思をもって、平穏に、かつ、公然と他人の物を占有した者は、その所有権を取得する。
解説:占有をはじめた時には「自分のモノではない」と知っていた場合(悪意)、または他人のモノであると教えられていたのに失念してしまった場合(有過失)には、その対象物を20年間占有し続けることで所有権を得ることができます。
短期取得時効(民法第162条 第2項)
10年間、所有の意思をもって、平穏に、かつ、公然と他人の物を占有した者は、その占有の開始の時に、善意であり、かつ、過失がなかったときは、その所有権を取得する。
解説:占有をはじめた時から「自分のモノである」と信じ(善意)、そう信じることに整合性が認められる場合(無過失)には、その対象物を10年間占有し続けることで所有権を得ることができます。
要するに、他人のモノと知らなかったら10年間、当初知っていたとしても20年間占有を続ければ所有権を取得できるということなのです。この占有期間は中断してはいけません。10年間、もしくは20年間連続して占有する必要があります。占有期間の途中で他人のモノであることを何かしらの形で認識してしまったら、占有状態はその段階で中断します。
取得時効が起こりうる典型的ケースとは?
しかし、自分のモノと思い込んだまま10年、もしくは20年間占有し続ければ本当に手に入ってしまうとは何と恐ろしい法律でしょう(正確には、占有期間経過後直ちに登記することが必要です)。しかも、そういった事例は意外と身近なところにあるのです。
隣地との境界
古くから土地所有者の入れ替わりがほとんどない戸建住宅街、隣り合う住宅Aと住宅Bが建つ土地の境界は長い間「生け垣」で仕切られていました。境界杭もなく、生け垣の成長とともに境界線は年々曖昧になっていきます。
ある日、Aの土地・建物が売却され、購入者が敷地(容積率)いっぱいに住宅を新築しました。その10年後、Bも売却することになり土地の測量を行ったところ、Aの住宅がBの敷地内に越境していることがわかりました。
この場合、Aは越境部分の土地を短期取得時効により取得できますが、そのためには越境部分をBの土地から分筆して登記する必要があります。それはそれで面倒な話で、Bがそれを受け入れるわけがありません。
A・B間で話し合いの結果、「Aは次回建替えを行う際に必ず越境部分を原状回復する」旨の覚書を交わすことで決着しました。
別荘地
風向明媚な場所にある別荘地、とくに草木の生い茂る高原の別荘地は、測量・境界線確認が行われていても境界杭を見つけ出すのに苦労したり、大樹の根に阻まれて境界が確認できないケースがほとんどです。
そのため、どこまでが自分の土地なのかを確定することが難しく、うっかり隣地に越境して住宅やカーポートを建ててしまうことも多々あります。または、隣地の土地所有者が現地を訪れないことをいいことに、隣地も含めて住宅を建てて占拠し、短期取得時効を成立させて所有権を奪われて(登記されて)しまう可能性もあります。
この場合は対象の土地が未登記であることが取得時効成立の前提となります。正規の不動産業者が分譲した別荘地であればほぼ心配はありませんが、個人間売買の場合は土地の明確な分筆や所有権登記が備えられているかどうかがわからないため注意が必要です。
相続不動産
祖父が友人Cから使用貸借(無償貸与)を受けた土地・建物に親子三代で同居し、祖父、そして息子が亡くなった後に孫Dが20年間暮らしました。ある日、Cの孫EがDを訪ね、「この土地・建物は祖父のモノだから返してほしい」と立退きを言い渡したのです。
このケースではDの長期取得時効が成立しています。使用貸借を証明するエビデンス(根拠や証拠)が存在せず、加えて土地・建物が未登記であれば、Eより先にDが登記することで土地・建物の所有権はDに移ります。
取得時効の本来の役割とは?
1873年(明治6年)の地租改正により日本の土地は区分され、納税義務とともに「土地所有権」という概念が確立されました。土地には個別番号(地番)が付けられ、隣り合う地番同士の位置関係がわかる程度の地図(公図)と、土地所有者を示す登記簿、土地台帳が作られました。
その後の震災や戦争によって土地の境界がわかりにくくなったため、昭和30年代に入り土地台帳と登記簿が一元化され、土地の分筆や面積修正(地積更生)の登記を行う場合は「地積測量図」の添付が義務付けられるようになりました。
しかし当時の測量図は手書きで不明瞭、加えて現地の境界杭は大工職人等が「邪魔だ」と移設してしまうこともしばしば…。実はこういった古い地積測量図や境界杭が今もなお不動産取引で有効とされているのです。
このように古く信頼性の低いエビデンスであっても残っていれば良い方で、それさえ残っていない土地・建物はたくさんあります。そういった“迷子不動産”のために取得時効制度はあるのです。
不動産の持ち主を決めるには裁判が必要です。裁判にはエビデンスを提示する必要があります。ちなみに宅建業法では「従業員名簿は10年、売上帳簿は5年」の保管が義務付けられていますが、それ以降は廃棄可能です。
一般企業においても20年以上保管される書類はなかなかありません。ましてや個人、それも高齢者であれば、20年以上前に約束した不動産の貸借、または売買の記録を手元に携えておくことなど大変難しいことです。取得時効はそういった善意の弱者を救うためにある法律なのです。
真実の所有者はエビデンスで守られる
前述の通り、取得時効に関わる裁判を起こす際はエビデンスが必要となります。そして以下のようなエビデンスが残っていた場合、不動産占有者の取得時効成立は難しくなります。
・賃貸借契約書
・使用貸借契約書
・毎月家賃の支払い履歴(預貯金通帳の送金・着金記帳等)
一方、以下のようなエビデンスがあれば取得時効は成立しやすくなります。
・売買契約書
・無償譲渡契約書
誰に所有権があるかが明確に記載されたエビデンスがあれば、真実の所有者が第三者に不動産等の資産を奪取される危険性は大幅に低くなります。
まとめ
他人の不動産を「自分の持ち家」と思い込んで暮らし続ければ、数年後には本当に自分のモノにできる「取得時効」という法律があります。
取得時効には、他人のモノと知りつつも所有の意志を持って20年間占有し続けることで所有権が得られる「長期取得時効」と、他人のモノとは知らず所有の意志をもって10年間占有し続けることで所有権が得られる「短期取得時効」があります。
不動産に関わる取得時効紛争は、隣地境界や相続不動産など身近なところで起きています。当事者が高齢になり、記憶や記録が残っていない不動産も多いため取得時効紛争は混戦します。
しかし賃貸借契約書や売買契約書といったエビデンスがあれば、真実の所有者が第三者から不動産を奪取される危険性は低くなります。