テレビの出演や雑誌のグラビア、エッセイの執筆など多彩に活躍する壇蜜さん。芸能界での仕事に至るまでには多くの仕事を経験し、そこで学んだことが今に生きているそうです。特に最初の一歩となった銀座でのホステスの経験が大きいといいます。銀座での日々から得た街への思いとは。そして、どんな判断で仕事に向き合い、現在の仕事にたどりついたのか。10月に環境省から「省エネ住宅推進大使」に任命され、断熱や省エネリフォームの普及にも活躍される壇蜜さんに伺いました。

銀座との出会い、ホステス時代につかんだバランス感覚

23歳の頃、もともとはバーテンダーの補佐のような仕事をするために銀座に行き、そこでの人とのめぐりあわせもあって、クラブでホステスのヘルプとしてアルバイトを始めました。大学を卒業してから調理の専門学校に通っていたときで、経済的に親に頼れないという焦りもあり仕事を始めましたが、稼ぎの大きい仕事が魅力的でもありました。

飛び込んでみると、大変だと気付いている暇すらないほど大変でした。化粧をして、服を調達して、いろいろな人から話を聞いて知識をつけてと、なんとか知恵を絞り、創意工夫する毎日でしたね。店で貸し出している衣装はあっても同じ衣装は着られないので、渋谷で2000円ほどの社交ダンスの衣装を5、6着買い、ついていたスパンコールをひとつひとつ自分で外したりもしていました。先輩とお客様が何を共通に盛り上がっているか勉強して話題に入っていったり、専門学校で作ったお菓子を配ったりもしました。

ただし、独りよがりにならないようにすることが大事でした。お菓子をお客様に出すときも、ママに話を通してアイデアをもらっていました。ママが「ヘルプの子がつくってくれたのよ」といってお菓子を出してくれたことで興味を持ってもらえましたし。お客様との会話でも、勉強して興味を持ったことをこちらから前のめりになって話すのではなく、お客様の興味があることを話題の中心にする。知識を蓄積してもアウトプットする場所ではないと教わりました。聞き役に徹することは大事でしたが、話し上手と聞き上手は偏ってはいけない。話し出すタイミングと引くタイミングのバランスがわかっていると話を聞けるということも学びました。

ホステスの世界に飛び込むことはあまり気になりませんでした。それは自分の中で適性を判断するラインが低いからだと思います。アスリートのように高みを目指したりブラッシュアップしていくという意識は備わっていなくて、思い悩んだり、壁に当たって乗り越える完璧主義の人生ではないです。70点くらいとれれば、という意識が常にあります。

街は八方美人であってほしい

銀座はホステスの仕事をするまで足を踏み入れたことがありませんでした。最初のイメージは大人の街であり、行儀のいい街であり、日本の大人を代表する街というイメージでした。それでも、銀座で働いている人に優しいお店が多かったのはうれしかったですね。仕事前に立ち寄れるサンドイッチ屋やおにぎり屋があり、それは銀座に買い物に来る人は立ち寄らないお店です。

銀座で働き生計を立てて頑張っている人たちの方を向いているお店が必ずあります。私も仕事が遅くなる金曜日の夜だけは、いつも行くコーヒーショップでスイートポテトを食べるのを自分に許していました。それが最後まで頑張るエネルギーでしたね。そうしたお店は忘れられないし、また食べたいなと今でも思います。

街は八方美人であってほしいと思います。地元の人に密着することももちろん大事ですが、外から訪れた人や外国人でも、来た時にすぐ受け入れてくれるところがあると安心します。ディープスポットや隠れ家のようなお店はどの街にも必要ですが、その店が何の店か、ヒントをつかめるような趣が街にあってほしいなと思います。それには街の人たちがその店について聞かれたときに答えられるような関係性があってほしい。

それが街としてのコミュニティにもなるし、来訪者が街に触れる間口にもなる。核家族のように、「核商店街」「核店舗」になってしまうとさみしいと思います。私は子どもの頃東京の三軒茶屋で暮らしていて、下町っぽい通りを祖母に手を引かれて街の人と話をしながら育ってきました。情報や噂話が街の中で飛び交うのが魅力的だなと感じます。

職を掛け持ちする中でつかんだ「70点主義」

私は仕事を長く勤めたいと考える方ですが、これまでは職を転々としてきました。大学で教員免許を取得しましたが、就職氷河期も重なってその仕事には就かず、知人と一緒にお店を出そうとして専門学校で調理師の免許をとったものの、知人との死別で計画がなくなってしまいました。和菓子屋に就職していましたが、体力的な事情もあり退職せざるを得ませんでした。

その後、ご遺体を修復する仕事にめぐりあい、受験勉強もして学校に入り直しましたが、再び就職難のタイミングにあたって空きがなく、大学病院の法医学教室でご遺体を管理する仕事を務めました。その頃に、2回目の銀座でバニーガールの仕事も務め、また芸能事務所での仕事が始まり、3足のわらじをはく生活になりました。

3つの仕事を掛け持ちしたときは、ちょうど一人暮らしを始めたので家賃を稼ぎ自活するために必死でしたね。ただ、3つとも自分の居場所がちゃんとあり、要求にこたえられているという環境がうれしかったですね。今思い出しても寒気がするほどしんどかったですが、あの経験で仕事をするということにようやくエンジンがかかった気がします。穴の開いたリュックを背負い、それを繕いながら歩くような日々でしたが、そのときの生活が長い目で見てプラスになっている気がします。

こうした生活ができたのは「70点主義」でいいと思っていたこともあるでしょう。このやり方が、生きていくという意味では成果を出せていたのだと思います。ナンバーワンのバニーガールだった人はそのうち指名がとれなくなってきて辞めてしまいましたが、そうした世界を目の当たりにすると、競争は自分の息切れを招くと気付けましたね。あの人よりも、と前のめりにならず、いかに競争しないかを考えるようになりました。

ちょうど、ホステスでお客様と会話するときにバランスをとっていた感じに近いと思います。ブレーキをかけて70点に落とし込むという意味で、ホステスの経験が役に立っていると思います。

仕事の適性を判断できたのは、ホステス時代のママから言われた言葉も大きいですね。「美人とか、かわいい、ではないが、よくお客を取る」と自分を肯定してくれました。ほめてくれたのが外見ありきではないところは自信につながりました。就職氷河期に当たっていたし、自分を肯定してくれる人はなかなかいなかった。何気なく「向いている」と言ってくれた一言は自分の適性に気づかせてくれた気がします。