日本の納税制度の起源は、聖徳太子や蘇我馬子らが新たな国づくりに取り組んだ飛鳥時代といわれます。

それから長い年月を経て行われた「地租改定」は、物納に固執していた納税スタイルを大きく変えたほか、土地所有者の権利を厳正に管理する「不動産所有権登記」の整備にも一役買いました。

そこで、現行の納税・登記制度がどのように構築されてきたのか、そこで地租改定がどのような役割を果たしてきたのかについて振り返ってみたいと思います。

まずは飛鳥~江戸時代をサクッと振り返り

歴史を紐解くと、日本国では「大化の改新(西暦645年)」によって「土地や人民は国の所有である」と定められたとあります。そしてその56年後に施行された「大宝律令」で、国家は人々に対し「租・庸・調」という納税義務を課すようになります。

「租」は農作物、「庸」は労働、そして「調」は布や絹などの物品を指し、農民は自らの田畑で獲れた穀物を、町場に住む者は宮廷に仕え、職人は自ら紡いだ工芸品をもって納税義務を果たしていました。

奈良時代、「墾田永年私財法」が布かれて土地の私有化が許されるようになると、地方豪族たちが次々と領土を奪取しはじめます。領土内に住む人々は、今度は国家ではなく領主に納税することになりました。

農民は米などの「年貢」を、商人は行商途中の関所で「関銭(通行税)」を徴収されるようになります。税率は領主毎に異なるほか、町中では農業ができないため商人は年貢を免除されるケースも多く、税負担の大半は農家へとのしかかっていきました。

安土桃山時代、豊臣秀吉が行った「太閤検地」により新たな納税制度が確立されます。このとき農民に課せられた年貢(石高制)は年間米収穫量の2/3(税率約70%相当)と非常に厳しいものでした。

江戸時代になっても年貢制度は続きますが、その課税対象は農作物の収穫量から「地租(土地税)」へと徐々にシフトしはじめます。そして商人に対しては、「運上金・冥加金(商売を行う権利税)」という“みかじめ料”的な意味合いの納税義務が課せられるようになります。

明治の「地租改定」で年貢が廃止に

領主によって異なる税率や、業種による課税の不公平さを是正するため、明治政府は明治6年(1873年)に「地租改定」を行います。

これにより、年貢制度が主流であった日本の納税制度は土地税制度へと大きく切り替わっていきます。地租改正では、まず以下のようなルールが定められました。

・土地収益から地価を算定する。
・地価の100分の3を地租(=土地税)とする。
・旧来の石高制に基づく物納(=年貢)から金納に改める。
・豊凶にかかわらず地租を増減しない、地券(=現在の登記簿謄本)所有者を地租納税者とする。

当時の「土地収益」とは、土地面積に対する米収穫量相当の金額を指し、これが現代の固定資産税路線価と同様に扱われていました。

「豊凶にかかわらず地租を増減しない」とあるので、地価の基準となる土地収益(=米収穫量)は過去の平均値を採用したものと予測できます。そして「100分の3を地租とする」とはすなわち「税率3%」ということになるので、現在の固定資産税(税率1.4%)と比較すると結構高めです。

地価を算定するには、言わずもがな土地面積の測量が必要になります。当時の政府は地券所有者(=土地所有者)に対し、自ら地籍調査(=土地の測量)を行うよう指示します。各所の地籍調査結果はいったん町村代表のもとに集められ、地価算定の後に政府へ申請されました。

しかしここで、地籍の調査結果をまとめた「地券台帳」の記載内容と現地での実測値との間に差異が生ずるという問題が頻発したのです。その原因は、地籍情報を台帳に転記する際の単純なヒューマンエラーや、所有者が無届けで土地異動したためでした。

これらの問題を解決するため、政府は明治18年から同21年(1885~1888年)にかけて大規模な地券台帳照合作業を実施します。

役人たちの苦労を知る由もなく、土地異動はどんどん増えていきます。明治初期までの日本は農業・林業・漁業などからなる第一次産業が主力でしたが、製造・加工技術の向上に従って第二次産業が拡大しはじめ、首位が入れ替わることになります。

すると、「田畑を耕して生業を立てるよりも、商品を仕入れて販売した方が合理的」と商人に転身する人が増え、町中には大小さまざまな商店が並ぶようになり、目抜き通り沿いの一等地は争奪戦となります。

農家が稼ぎ頭だった時代は土地異動などほとんどありませんでしたが、商業が台頭する時代にあっては、「広く拓かれた田畑よりも、狭くても人通りの多い町中」と、土地に対する価値観がガラリと変わりました。この事象がターニングポイントとなり、土地の評価基準は米収穫量から繁華性へと移り変わっていきます。

昭和にも行われた「地租改正」

いよいよ路線価の誕生? と思いきや、もう1ステップあります。米収穫量に替わって土地の評価基準となったのは「賃貸価格」です。

1900年年代初頭、第一次世界大戦下の好景気に沸いた日本では、東京をはじめ全国各地で都市化が進行しました。そうなると、これまでの米収穫量を基準とした土地評価では公正な課税ができないという問題に直面します。

そこで全国の税務署各局は、大正15年から昭和2年(1926~1927年)にかけて「土地賃貸価格調査」を実施し、すべての土地に賃貸価格を付けました。そして昭和6年(1931年)に「地租法(別名「昭和の地租改定」)」が制定され、賃貸価格が新たな土地の評価基準となったのです。

第二次世界大戦後の昭和22年(1947年)、土地税は地方に移譲されて府県税となり、同25年(1950年)にはさらに移譲され現在の市町村税となりました。また、明治時代から受け継がれてきた地券台帳(土地台帳)も税務署から法務府(現在の法務局)へと移管されました。

いよいよ、路線価の時代へ

昭和20年代、賃貸価格は土地税のほか相続税・贈与税算定の基準にもなっていました。しかし戦後の高度成長期に突入し、全国各地で土地の区画整理事業がはじまると、賃貸価格が設定されていない新興住宅地が増えて税額算定に問題が生じはじめます。

そこで、昭和30年(1955年)から導入されたのが「路線価」方式です。路線価は、賃貸価格のように土地に対して価格を付けるのではなく、土地が接面する道路に対して価格を付けるものです。

現在の路線価は、全国2万ヵ所余りに設定された標準地の価格(地価公示価格)、実際に売買取引された事例価格、不動産鑑定士による査定評価、不動産業者など精通者から聴取した市場動向などを参考に決定されます。路線価はこのように多角的な視点から分析され、現在もなお不動産評価の指標として重要な役割を果たしているのです。

まとめ

日本の納税制度の変遷について、飛鳥時代から現代までを駆け足で紹介しました。

土地に対する課税の対象が農作物自体からその収穫量対価となり、賃貸価格を経て、繁華性に即した路線価へ…時代毎の価値観の移り変わりは不動産投資家にとって興味深いものです。

コト・モノの価値は時代背景によって変わっていきます。昨今は空前のキャンプブームにあり、山林を購入する人も増えています。加えて都会生活者のデュアルライフ(2拠点生活)志向も高まっていると聞きます。

このご時世、これまで無条件で高評価が得られていた都市部の地位も地方都市に取って代わられる日が来るかもしれません。そうなった時の不動産評価の対象は土地の属性なのか、路線価なのか、はたまたその地で体験できるレクリエーション性なのか、どんな評価手段が選ばれることになるのか、楽しみです。