東京都内では今、惜しまれつつその役割を終える築古ビルが増えています。いずれも戦後の高度成長期にあたる1960年代~70年代に建てられた築60年前後の建物です。

中には取り壊すには惜しい、語るべき歴史がたっぷり詰まった名建築もあり、解体に対する反対の声も多方面から上がっています。それでも姿を消していく「戦後の名建築ビル」の生い立ちと、その行く末について紹介します。

【電通築地ビル】~幻の「東京湾・海上都市構想」~

東京都中央区築地一丁目にある「電通築地ビル」(1967年竣工・築54年)の解体工事はすでに2022年春から始まっています。同ビルは、大手広告代理店の電通が「電通銀座ビル」(1933年竣工)に次ぐ新社屋として建立したものです。

設計は、戦後復興のシンボルともいえる「広島平和記念資料館」の設計を手掛けた建築家・丹下健三氏によるもの。建築家であり、都市計画の専門家でもあった丹下氏は、電通創業者の吉田秀雄氏と意気投合し、築地新社屋を起点に房総半島の木更津までを交通網を結び、その通過点にある東京湾上に一大都市を建造する「東京計画1960」を企てます。

しかし吉田社長の死によりこの計画は立ち消え、新社屋新築のみ実現されるに留まりました。

2002年、港区東新橋(汐留)の電通本社ビルが竣工したことにより、電通築地ビルにあった本社機能のすべては汐留へと移管され、入れ替わりで関連会社が入居しました。これら関連会社も順次退去した後の2014年、住友不動産が土地・建物の所有権を取得しています。

解体の理由は建物の老朽化と、隣接する首都高速道路(都心環状線築地川区間)を含めた再開発計画です。現段階で公表されているのは高速道路の大規模更新工事程度ですが、銀座や新橋を徒歩圏に捉える好立地ですから、丹下氏並みのダイナミックな計画が企てられていることを期待してしまいます。

【東京海上日動ビルディング本館】~皇居前に建つ超高層ビル第1号~

「東京海上日動ビルディング本館(旧・東京海上ビルディング本館)」は1974年竣工、今年で築47年を数えます。

「東京海上」といえばご存知の通り、日本における損害保険会社の先駆けです。同社は岩崎弥太郎氏や渋沢栄一氏など名立たる一流財界人が株主となり、1879年に千代田区丸の内で創業しました。

当初は船舶に掛ける海上保険がメインでしたが、1914年から「ノンマリン保険」と称して、火災保険や、当時はまだ民間所有台数が少なかった自動車の損害保険分野に参入しています。

1960年代になると、モータリゼーションの伸展によってマイカー所有率が爆発的に上昇、それに伴い自動車保険のニーズも高まっていきます。増加していく契約数に対応するため、同社は自動車保険の総合オンラインシステムを構築、このたび解体が決定した同ビルが竣工したのはこの時期にあたります。

同ビルの設計担当は、ル・コルビュジエに師事し、アントニン・レーモンドのアトリエにも在籍していた日本モダニズム建築の騎手・前川国男氏です。建設地である丸の内エリアは皇居に近いため建造物の高さ制限がありましたが、1963年の建築基準法改正で規制が撤廃されたため、前川氏は地上30階・高さ約130メートルの超高層オフィスビルを起案します。

すると周囲から「法はクリアできているものの、皇居を見下ろすビルディングはいかがなものか?」と議論が持ち上がることに。そういった意見も影響してか、東京都は建築確認を一旦却下しますが、前川氏らは粘り強く折衝を続け、最終的に地上25階・高さ約100メートルでの建築認証を勝ち取りました。

紆余曲折を経て建ち上がった同ビルも、「従業員の新しい働き方に対応する」という理由から解体の憂き目を見ることになりました。解体工事は2023年度着工、2028年度の新社屋竣工を目指します。

【中銀カプセルタワービル】~日本メタボリズム建築のレガシー ~

「中銀カプセルタワービル」は1972年に建設された分譲マンションです。

設計者の黒川紀章氏は日本におけるメタボリズム建築の第一人者であり、同ビルはその代表作になります。基本コンセプトは「都心で働くビジネスマンのためのセカンドハウス」で、約10㎡とコンパクトな室内に、電化製品や家具、オーディオ、TV、電話といった生活に必要な最小限のアイテムが装備されています。

そして最も特徴的なのが、各住戸がカプセル状に独立しており、カプセル毎に取り外しが可能な設計になっている点です。しかし、築49年を経た現在まで一戸も取り外されたことはありません。

その元凶は給・排水配管です。床・壁・天井で構成されるカプセル部分は取り外せても、縦に繋がる配管の撤去・回復が困難なため、カプセルの取り外し・交換が容易にできないのです。同ビルの土地は借地権のため、建物の維持管理ができなくなった暁には更地にして地主へ返さなければなりません。新築当初は「カプセルを新しいものに交換すれば土地の返還は半永久的に不要」と考えていたのでしょう。配管の問題は近年になって顕著になったものです。

解体の話は、土地所有者が変わってから出始めたと聞いています。解体工事は2022年から本格化する予定ですが、共用部の設備撤去は既にはじめられているようです。しかし、建物存続を望むカプセルのオーナー数人は未だ居住・使用を続けています。

オーナーたちが先日立ち上げたクラウドファンディングでは想定以上の支援が集まり、建物解体後のカプセルは美術館など公共施設へ寄贈されることになりました。移設されたカプセルは展示だけでなく、宿泊体験施設としての利用も検討されているということです。

【ホテルオークラ東京】~「一万八千坪の芸術」の再現~

「ホテルオークラ東京」は、明治から昭和の日本経済をけん引した大倉財閥の二代目・大倉喜七郎氏が1962年に開業しました。

戦後日本の国際化を見据え、「日本らしいホテルをつくりたい」というコンセプトのもと建ち上がった建物は、優美かつ奥ゆかしさを兼ね備えた「侘び・寂び」の世界そのもの。

その象徴的な意匠は、東宮御所や帝国劇場を手掛けた建築家・谷口吉郎氏設計によるメインロビーに表れます。古墳時代の首飾りを模した「切子玉形」の照明(通称「オークラ・ランターン」)が天空を舞い、ロビーに陽光を招き入れるガラスウォールには、古式ゆかしい麻の葉文様の障子戸が取り付けられています。

これら日本の伝統美が盛り込まれた空間演出に多くの海外VIPが魅了され、いつしか同ホテルは「一万八千坪の芸術」と呼ばれるようになります。しかし開業から52年目となる2014年、同ホテルは建物の老朽化を理由に建て替えを決定。その発表を受けて、ホテルの常客であった海外著名人から保存を望む声が多数上がりました。

2019年春、ホテルオークラ東京改め「The Okura Tokyo」は3年半の解体・建設工事を経て再スタートを果たしました。世界各国にいるオークラファンからの要望に応え、新メインロビーにはオークラ・ランターンや麻の葉文様の組子障子を配した、旧ホテルの空間と見まがうような設えが再現されました。この演出を手掛けたのが、初代メインロビー設計者である谷口吉郎氏の子息・谷口吉生氏であることも興味深いエピソードです。

まとめ

海外では築100年以上のビルディングなど当たり前のように存続していますが、日本では長くて50~60年、一般的には30~40年程度で解体・新築されてしまいます。

銀行融資や税申告時の減価償却に関わる耐用年数であったり、島国ならではの天災発生頻度の高さ、そこからくる建築基準法の厳しさが影響しているのかもしれませんが、それより何より日本人の「ガジェット好き」が日本建築の寿命を縮める最大の原因かもしれません。