不動産物件の検索をしていて、ちょっと変わった間取りを見かけることがありました。「この地域独特の間取りなのかな?」と考えながら調べてみると、どうやら“ご当地特有の間取り”が存在するようです。そこで、日本各地のオモシロ間取りにはどんなものがあるのか、そして、その間取りが生まれた由来について調べてみることにしました。

気候特性から生まれた「防雨・防寒」間取り

全国各地にある「特徴的な間取り」について聞き込み調査をしている中、住宅情報誌の編集をしている友人から、「北陸地方にはサンルーム付きの住宅が多い」という情報を得ました。

サンルームは、南向き開口部の天井から床までガラスサッシで覆い、陽光が効率よく採り入れられるよう工夫されたスペースです。わかりやすくいえば、バルコニー全体がガラス窓で覆われているような構造です。調べてみると、福井県や石川県で賃貸・売買問わず、このサンルーム付きの物件が多いことが確認できました。一体どんな経緯でサンルーム付き物件が増えることになったのでしょう?

全国都道府県の年間降水日数ランキングを見てみると、石川県、富山県、福井県は毎年上位を独占しています。

サンルームはガラス張りなので、雨の日に洗濯物を干しても濡れることはありませんし、また寒い冬は室内の暖気を逃さない保温効果も期待できます。雨の日が多いため日照時間が短い北陸地方では、サンルームは生活に欠かせない空間となっているようです。このサンルーム、関東地方でも梅雨時なら便利に使えそうですね。

北陸地方と同様、気候的な理由から玄関に「風除室」を設けているのが北海道の住宅です。

風除室とは、玄関を覆う形で作られた温室のような小部屋のことをいいます。豪雪地帯である北海道においては、極寒の外気が室内に入り込まないよう玄関を二重構造にして、室内の暖かさを逃がさず守る必要があります。北海道の冬の気温は日中でも氷点下のまま上がらず、都市部の札幌であっても平均気温はマイナス0.9度前後、降雪量は100センチ以上になる日も少なくありません。

さらに積雪量が200センチを超える地域では、大雪で1階玄関が埋まってしまうことを想定して、2階に玄関扉を設置している住宅もあります。同じ日本国内でも、気候の違いによって生活スタイルが大きく変わるものですね。

商人の街が生んだ「ウナギの寝床」間取り

ご当地間取りの代表格といえば、京都の「町家」でしょう。

建物入口の間口が狭く、「通り庭」と呼ばれる土間が建物を貫くように続き、この通り庭に沿うように座敷、台所、居間が配され、一番奥に裏庭があるのが町家建築の特徴です。奥へ細長く伸びる形状から別名「ウナギの寝床」とも呼ばれています。京都にはなぜこのような間取りの家が多いのでしょうか。

江戸時代に間口の広さに応じて税金が課されたためであるとか、多くの家(店)が道に面するよう間口を狭く区画されたなど、さまざまな説があります。京都の街を歩くと、一般住宅と見受けられるものの玄関横に、商品棚のようなガラス張りのスペースがある家が散見されます。京都はもともと商人の街なので、これらの建物は過去、自宅兼店舗として機能していたのでしょう。

人通りの多い道(=繁華街)に面するかしないかは店の客入りにも影響するため、当時の商人たちは高い税金を払ってでも、どんなに間口が狭くても道沿いに店を置こうと努力したに違いありません。間口の狭いウナギの寝床が誕生した理由は、こんなところにもあるのでしょう。

商店としての役割を終えた町家の商品棚には、家族の七五三写真や、京人形のコレクションを陳列するなど、それぞれの家でさまざまなディスプレイが凝らされています。現代の町家は、家族の成長や趣味の品を披露する「近所間のコミュニケーションツール」として健在のようです。

男女で入口が分けられた「琉球王朝」間取り

沖縄の住宅にも不思議な特徴があります。歴史から紐解いていくと、琉球王朝時代の沖縄のポピュラーな住宅スタイルは2棟式で、敷地に向かって右側に客間棟、左側に台所棟が配置されていました。2棟それぞれに入口はありますが、そこに「玄関」という概念はなく、客間棟の入口は男性しか入れず、女性は台所棟のみ出入りできるというルールになっていました。

現存する住宅にもその名残はあり、建物は1棟に集約されたものの、右側に客間(その奥に寝室)、左側に台所という歴史的配置は変わらず、玄関も存在しません。では、果たして未だに男性が右側、女性が左側というルールも残っているのでしょうか? 機会があれば現地に暮らす方々に伺ってみたいものです。

丘の上、馬屋を備えた「専業農家の邸宅」間取り

以前、神奈川県横須賀市で「駅徒歩10分、土地200坪、馬屋付き7LDK一戸建て」という物件が売り出されたことがありました。

売買代金は1,000万円と破格の安さです。しかし馬屋があるとはかなり古い物件であろうと物件概要を見たところ「築年不詳」とのこと。恐らく戦前、または戦後まもなく建てられたものと思われます。土地だけでも割安感があるのでさらに調べていくと、その安さの理由がわかりました。この物件(土地)は公道に接道していないのです。丘の上に立地し、物件までの経路は階段のみ。当然、車は入れないので建て替え・新築も困難な場所となります。

実は、横須賀市や三浦市が位置する三浦半島にはこういった再建築困難な売り物件が多いのです。三浦半島は平坦地が少なく、海岸線から競り立つように丘陵地が続いています。この格安物件も丘陵地のてっぺんにあり、東に東京湾、西に駿河湾を望む風光明媚な場所にあります。昭和初期、この眺望豊かな高台に惚れ込んだ専業農家が居を構え、生活資材運搬のため馬を飼い、農地で働く小作人のために居室を増築していったのではないかと想像できます。

この専業農家には後継者がおらず、邸宅はやむなく売りに出されたのでしょう。しかし建物は老朽化が激しく、立地条件の悪さからリフォームや建て替えも困難なため、例え安価であってもなかなか買い手が付きません。この物件は市場から消えましたが、売買成立したのか、そのまま朽ち果てたのかについては不明です。

花街の栄枯盛衰を物語る「見習い職人」間取り

東京の赤坂や新橋などで時折見受けられるのが、1畳から2畳程度の小部屋がずらりと並んだ1棟建ての住宅です。

これは、料亭や小料理屋の店主が見習い職人のために建てたいわゆる「社宅」的なもので、見習い職人たちはここで暮らしながら料理の腕を磨きます。しかし、こういった見習い制度をとる店は減少の一途で、古式ゆかしい師弟制度は消滅しつつあります。

また、昭和3年(1928年)創業の赤坂「金龍」が昨春(2019年3月)閉業したのを皮切りに、コロナ禍の影響も相まって老舗料亭の廃業にも拍車がかかっています。このような理由から、見習い職人向け住宅の賃貸募集や売却が増加傾向にあります。

まとめ

厳しい気候条件の克服や商店の間口確保など、地域がそれぞれに抱える課題を解決するため、ご当地間取りは独自の進化を続けてきました。これらの間取りが誕生した経緯を知らなければ「変な間取り」で終わってしまいますが、歴史的背景を辿っていけば「なるほど」と納得できる答えが得られます。

「Go to」キャンペーンを利用して旅行に出かける際は、ガイドブックでお馴染みの観光名所だけでなく、その地の街並みや家の間取りにも注目してみてください。もしかしたら、新たなご当地間取りを発見できるかも知れません。